top of page
ドロブラロゴ

プロジェクト・ドロブラインタビュー

Long Interview 福正 大輔

時に僕らは、せつなさに胸えぐられる。
晴れた午後、白い窓辺、
ふと目をやると風に飛ばされた洗濯物。
昨日は雨だったのか、泥まみれのブラジャー、
しかもAカップ。
泥まみれのブラジャーAカップ。
風に身体をまかせて、優しく、強く。
ドロブラ 活動開始。
あなたに優しい子守唄を。


2000年、ドロブラ初舞台「たまごクラブは買ったのに」台本表紙より

 2006年6月12日。ドロブラの脚本家・萩原伸次は自ら命を絶った。
享年24歳。ドロブラは、脚本家の萩原伸次と演出家の福正大輔が、まだ学生だった頃、萩原の脚本を舞台化するために立ち上げた劇団だ。

 「萩原は、それこそ命を削りながら言葉を絞り出していたんです。あいつの脚本の一字一句、どこを取り上げても、あいつの命が宿っていることが分かる。だから、萩原と僕との間では、言葉をいじらない、形容詞の一つも、語尾の一文字も、変えないというのが暗黙の了解ごとだったのです」

 初公演のときのフライヤーに書かれた言葉、これも萩原自身によるものだ。日常の何気ない風景の中に漂う「せつなさ」、生きる事の難しさに喘ぎながら、それでも「明日一日、生きてみよう」と思ってもらえる芝居を志した。

「萩原の言葉は、その当時から演劇界で活躍している方達の目に留まり、<すでに自分の言葉を持っている>と評価されていました。僕は、観客が日常の中で誰もが無意識のうちにおこなっている言動のおかしさに笑いながら、ふと、『まてよ、これは俺のことじゃないか』と感じて、改めて自分を見直し、客観視してもらえたらと思いながら、演出をおこなっていました」

 萩原が脚本にこめた笑いは、いつも哀愁と隣り合わせにある。登場人物の誰かをボケ役にして、突っ込みを入れて笑わせるような事は一切しない。誰もが必死で懸命で、だからこそ笑えるところを、デフォルメしてあぶり出す。
 だが、一文字一文字を命がけで書いていたからこそなのだろう、2004年ごろから萩原を「書けない」状況が襲った。もともと彼の脚本を上演するための集団だから、そうなると劇団員はみんな活動の場を失ってしまう。危機感を覚えた演出家の福正は、彼の尻を叩いた。
「ほとんど脅しでしたね。物事を突き詰めて考える性質からか、鬱傾向が強いあいつを追いつめてしまった。おまえが書けなくなったら、生きている意味ないじゃん、みたいなことを言っていたのです。だから本当に死んでしまって、僕は自分の責任だと思った」
 福正は、さまざまな思いを胸に、ドロブラを萩原の遺作を上演する事で再起させようと考えた。
「台詞は絶対に変えないと心に誓っていました。そこで萩原の作品7、8本の台詞を別の作品から持って来て入れ替えたりして、オープニングとエンディングをつけて、一本の作品にすることにしたのです。あいつの作品はそのまま上演すると12、3分の短いものが多かったし、中には未完でおしまいがあいまいなものも多い」

 

こうしてできた作品を、一周忌にあたる2007年6月に萩原伸次の追悼公演「拝啓、萩原伸次様 僕たち元気でやってます。」として上演し、8月にドロブラの本公演として「月の影で息継ぎを」を上演した。


「その後若手演出家コンクールに、追悼公演のビデオを送ったところ、一次審査を通過したため、二次審査に出すための公演を急遽11月におこないました。後から聞いた話なのですが、二次審査はトップで通過していたということでした。決勝は2008年3月。ここでコテンパンにされ、自信を失った僕は、ドロブラの公演をやめてしまいました。それからは外部の集団や企画に台本を提供したり、演出したりして過ごしていました」

 2011年9月。小学校の非常勤教師として勤めながら、演劇活動を細々とおこなっていた福正は、覚せい剤取締法違反で逮捕された。2年4カ月の実刑判決、3年の執行猶予。交番に自ら出頭し、助けを求めた結果である。 福正はそれを機に、介護の専門学校へ通い、卒業後から現在に至るまで介護施設に勤めている。そして2014年8月現在。彼は来年2月のドロブラ再々起をかけた公演のために動き出している。
 この間に何があったのだろう。
「逮捕されても、いろいろな人が僕を支えてくれました。もちろん辛い思いもしたけれど、学校へ通う事にして、新しく出会った人たちからも、陰に日向に助けられました。落ち込んでいるときの他者の励ましや支えがいかに大切であるかを身をもって体験し、思ったのです。なぜ僕は、萩原が書けなくなって精神的に落ちている時に、今回僕が経験したように、彼を支えてあげられなかったのか、と」

 同志であり、親友だった萩原を失ってから、7年。あの時彼から渡されたバトンを、握るでも投げ出すでもなく過ごした年月を経て、今、福正は改めてそのバトンをしっかり握りしめ、前を向いて走り出そうとしている。 

 

だから僕は耐える。あの子達のために。だから僕は生きる。あの子達のために。

いつしかホームランボールが僕を突き破ったら、その時は、みんな、喜んであげてね。 

 

「月の影で息継ぎを」より抜粋

 

インタビューその2へ

 

取材・文:WEBマガジン ヱニシ編集長 竹澤まり

カメラ:宮代伸介

bottom of page